上総国分寺・僧寺跡かずさこくぶんじ・そうじあと
(国指定史跡)

天平時代に建立された上総国分寺の僧寺跡には、現在「医王山清浄院国分寺」が建てられておりますが、その大半を占める部分は草原のままで保存されていま す。奥に見える森の中に現在の国分寺が有ります。
写真中央部の小高い部分は7重の塔があったところで芯礎の大きさから塔の高さは60m位あったと推定されています。礎石の大半は長い年月を経る間に庭石として持ち去られてしまったそうで現在は中央部の一部礎石を残すのみです。


国分寺僧寺跡(国指定史跡)


医王山清浄院国分寺本堂


国分寺仁王門は、その建築様式から江戸時代の中頃の十八世紀の建立と考えられています。

国分寺仁王門


正面両脇の金剛柵の中に安置されている仁王像は、特徴からは右側の阿形像は南北朝時代に、左側の吽形像は江戸時代の作と考えられています。
傷みが激 しくなったので2004年に解体修理を実施し、その際に50年ほど前に赤く塗られた塗料も剥がされ当初の姿がよみがえりました。(2004年9月29日据付)

国分寺仁王像(解体修理前)
吽形像 阿形像

修復なった仁王像(2004年9月29日撮影)
吽形像 阿形像
吽形像 阿形像


この仁王門の手前右側に「応安第五壬子十二月三日」(1327年)の銘文を刻む「将門塔」と伝えられる宝篋印塔があります。現地の案内板に拠れば、『石 質は凝灰岩で高さ約1.5m。塔身は損耗が激しく四面に種子を刻んだと思われるが正面の「アク」の梵字が判読できるに過ぎない。隅飾りは外側の直線が笠部の 底辺に対して直立し内側の弧線は2弧線となっている。相輪は紛失してない』と有ります。現在の相輪は復元したものです。

将門塔(市指定文化財)
将門塔

現在の国分寺の本尊は薬師如来で、それを祀る薬師堂(市指定文化財)は、江戸時代の中頃、正徳六年(1716年)に書かれた国分寺「再建之縁起」によれ ば、僧侶「快應」によって正徳5年(1715)頃再建されたと有ります。
薬師堂は茅葺き屋根の入母屋造り、桁行3間、梁間3間のいわゆる三間堂の形式で、内 部には植物文様の絵や竜、飛天が描かれています。

薬師堂(市指定文化財)
薬師堂


上総国分寺
   住所: 千葉県市原市惣社
   交通: JR五井駅下車、国分寺台行きバス市役所下車、徒歩約5分

以下の文章は市原市のホームページから抜粋しました
国分寺は、今から1250年ほど前の奈良時代中ごろ、国の平和と繁栄を祈るために、全国60か所余り建てられた僧寺と尼寺からなる国立寺院です。当時、異常気象が 続き、人々は飢えや疫病に苦しんでいました。そのうえ政治の争いや国際関係の緊張などが、人々に不安と苦痛をつのらせました。仏教をあつく信仰していた聖武 天皇と光明皇后は、こうした社会不安や政治の混乱を仏教で鎮め、人々の心をひとつにまとめるために国分寺や東大寺を建立しました。それから三百年近く、国分 寺は国家仏教の拠点として、地方に仏教を広め、文化の向上に大きな役割を果たしました。
上総国分寺の規模は全国有数で、伽藍(がらん)もよく整った代表的な国分寺でした。特に尼寺は寺域が広く、全国最大を誇り、12万3,000uの規模を持っていま した。発掘調査の結果でさまざまな遺物が発見されていますが、その多くを占めるのが屋根に葺かれていた丸瓦や平瓦です。瓦の文様には、平城京で使われていた 最新流行のものを取り入れていたことがわかっています。
尼寺内には、尼僧の日常生活にかかる施設(大衆院・だいしゅういん))や寺の事務を行う政所院(まんどころいん)、建物の修繕をする大工や金属工などの工房 や居住の施設(修理院・すりいん)、寺の雑役などに従事した人たちの居住区(賎院・せんいん)、薬草や野菜、花などを栽培した薗院(えんいん)、花苑院(か えんいん)などの施設がありました。
このような国分寺も、平安時代の中ごろ(11世紀)には、急速に衰退していきました。これは律令国家の力が弱まるとともに、経営が困難になったことが考えられ ます。上総国分寺、尼寺も発掘調査により、11世紀には衰退していたことがわかっています。


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