以下の文章は市原市のホームページから抜粋しました
国分寺は、今から1250年ほど前の奈良時代中ごろ、国の平和と繁栄を祈るために、全国60か所余り建てられた僧寺と尼寺からなる国立寺院です。当時、異常気象が 続き、人々は飢えや疫病に苦しんでいました。そのうえ政治の争いや国際関係の緊張などが、人々に不安と苦痛をつのらせました。仏教をあつく信仰していた聖武 天皇と光明皇后は、こうした社会不安や政治の混乱を仏教で鎮め、人々の心をひとつにまとめるために国分寺や東大寺を建立しました。それから三百年近く、国分 寺は国家仏教の拠点として、地方に仏教を広め、文化の向上に大きな役割を果たしました。
上総国分寺の規模は全国有数で、伽藍(がらん)もよく整った代表的な国分寺でした。特に尼寺は寺域が広く、全国最大を誇り、12万3,000uの規模を持っていま した。発掘調査の結果でさまざまな遺物が発見されていますが、その多くを占めるのが屋根に葺かれていた丸瓦や平瓦です。瓦の文様には、平城京で使われていた 最新流行のものを取り入れていたことがわかっています。
尼寺内には、尼僧の日常生活にかかる施設(大衆院・だいしゅういん))や寺の事務を行う政所院(まんどころいん)、建物の修繕をする大工や金属工などの工房 や居住の施設(修理院・すりいん)、寺の雑役などに従事した人たちの居住区(賎院・せんいん)、薬草や野菜、花などを栽培した薗院(えんいん)、花苑院(か えんいん)などの施設がありました。
このような国分寺も、平安時代の中ごろ(11世紀)には、急速に衰退していきました。これは律令国家の力が弱まるとともに、経営が困難になったことが考えられ ます。上総国分寺、尼寺も発掘調査により、11世紀には衰退していたことがわかっています。
|