インドとヒンドゥー教の正月


2000-10/26~2000-10/30

今回のインド旅行は、インド北部ヒマラヤ山脈の近くにあるデリー、ジャイプール、アーグラーの世界遺産を巡る旅で、インド全体から見ればほんの一部を周ったに過ぎないが、それでも日本とあまりにもかけ離れた生活文化に触れて受けたカルチャーショックは今までに訪れたほかの国々とは比べようもないほど大きかった。
帰ってきたばかりの時は『もういい』と思っていたが、時間が経つとまた行きたくなってくる不思議な国である。
蛇足ですが末尾にインド旅行のキーワードをあげているのでご参考まで。


2000-10/26(木)成田~デリー

成田発11:15JL-471便に乗る。
デリーの空港近くに差し掛かると、地上に赤い地肌が露出している荒れ果てた丘や谷が見えてきた。 民家も人影もまったく見えない。
暫く同じような光景が続いていたが、そのうちに機は着陸態勢に入り16:20に無事インディラガンジー空港に着陸した。
空港はさほど広くないがあちこちに傷みが見受けられ、天井がはがれている所もある。

通関手続きも終り一歩外に出て驚いた。
通路の両側にびっしりと座り込んだ群集が、何をするでもなく壁に寄りかかっている。
中には裸足の人も見受けられる。
ここではまだバクシーアタック*を受ける事は無かったが、あの人たちはあそこで一体何をしているのか気になってしまった。
その前を足早に通り抜けバスに乗って空港を出ると、抜けるような青空の下広い道路の脇をゆっくりと牛が歩いている。
話には聞いていたが実際に見るのは初めてである。
後で現地ガイドに聞いた所では、あれら飼い主のいない牛はミルクも出ないらしい。 搾乳を目的とする牛は飼い主もいて逃げないように繋がれていると言っていた。

バスが赤信号で止まるとすぐに窓の下に赤子を抱いた女性が小さい子供の手を引いて物乞いに現れる。
見れば当人も子供も裸足である。
しかし、ここで少しでもお金を与えると周辺から一斉に物乞いが集まってきて収拾がつかなくなるので窓を締め切って目をあわさないように努める。


到着した日はヒンズー教の正月に当たるらしく、ホテルまで至る道の両サイドにある建物はどこもクリスマスかと見紛うほどのイルミネーションで飾りつけられている。
日本で言えばさながらパチンコ屋が延々と続いているような光景に近い。
ホテルに近づくとそこも巨大なクリスマスツリー状態で、10階建てよりも高いと思われる建物の輪郭がイルミネーションで飾られ、更に四方にも運動会の万国旗よろしくイルミネーションの光が広がっている。
そのままホテルへ行き荷物を置いて部屋で少し休んだ後夕食を食べにレストランへ。
そこで食べたインド料理の中ではチキンカレーやタンドーリチキンが美味しかったのを覚えている。

レストランからの帰途、街のあちこちで花火が打ち上げられているのが見える。午後8時半頃ホテルに戻り、明日の事を考えてすぐに風呂に入って寝ようと思ったが花火の音がうるさくてなかなか寝られない。 窓から外を見るとホテルの周囲至る所で花火が上がる。
それも縁日で売っているようなオモチャの花火でなく本格的なもので窓を通して響きまで伝わってくる。
そのうちに外は硝煙でかすんできて道路を走る車もおぼろげになって来た。
いつまでも起きているわけにも行かないのでベッドに潜り込んで寝たが、後で聞くとあの花火は朝5時過ぎまで続いていたらしい。


2000-10/27(金)デリー~ジャイプール

本日の移動時間は5時間半と言うことで、早朝6時の出発であるが同行のメンバー誰もが昨晩の花火に悩まされてゆっくりと寝ることが出来なかったらしく、寝不足の目をこすりながら集まってきた。
正月という事で赤や黄色の花で作ったモールで飾り付けられたバスは、まだ朝日も昇っていないうちにジャイプールに向け出発した。
街は昨晩の狂騒の名残でごみの山と化している。
あれを片付けるのは大変だろうななどと余計な心配をしながらデリーを離れた。


朝日が昇り少し明るくなってくると道路の両側に異様な光景が点在するのが見える。
水を入れたペットボトルを前においてお尻を出して座りこんで用を足している光景である。
初めて見たときは本当にびっくりしたが何処まで行っても同じ光景が続くと慣れてくる。
ガイドに聞くと農村では皆小さい時から戸外でする習慣がついているので、現在でもトイレは無いし、例えトイレを設置してもそこでは出ないといっていた。 んっ!と言う事はあのペットボトルの水は携帯式ウォッシュレットだったのかな?残念ながらそこまでは確認しなかった。


バスは2時間ほど走って途中のドライブインでトイレタイムを取ったが、実はこのドライブインも最近出来たばかりで数年前までは途中休憩する所も無く観光客は難儀したと言っていた。
ドライブインにはピンクやオレンジ、ローズなど色とりどりのブーゲンビリアが咲き乱れていたが、立ち寄ったのは我々のバスと裕福そうなインド人旅行者の自家用車1台のみ。


高速道路は片側2車線であるがどの車も中央の白線をまたいで走っている。前を走るトラックの後部には例外なく『HORN PLEASE』と大きく書かれている。
最初は理由が分からなかったが暫く走るうちにハッキリした。
高速道路といっても周囲に柵など何も無く、自転車が走るならまだしも横からロバ,やぎ,牛などが突然出てくるので安心して左車線を走ることが出来ない。
所々にはねられて死んだ牛やロバの死骸がそのまま放置されているのを見ると事故はよく起こると思われる。
後ろからクラクションを鳴らされたら左に寄るが追い越されたらすぐにまた中央の白線をまたいで走る。そうこうするうちに、今度は正面からラクダに引かれた荷車が積荷を満載にしてこちらへ向かって直進してくる。
付近の住民の荷物運搬用らしいが反対車線では回り道になるのでしばしば逆走するらしい。
あれは有料道路ではあるが、とても高速道路と呼べるような道路ではなく、地元住民が日常タダで自由に往来する生活道路でも有るようだ。
中央分離帯には、牛や象の糞が乾燥して燃料にするために延々と並べられていて、その鼻を突く匂いが窓の隙間から漂って来るが密閉できるようなバスではないので我慢するしかない。


ジャイプールへ行く途中で世界遺産のアンベール城に寄る。
城は小高い丘の上にあるので城下で象のタクシーに乗って狭い坂道を登っていくと、両側からお土産売りが『5個でシェン円』と叫びながら、木彫りの象が入った袋を象に乗った観光客に向けて放り上げてくる。
受け取ってもすぐに投げ返さないといつまでも煩く付きまとって来るので何人かは根負けして買ってしまうらしい。


城に到着すると象を降りて城内の見学をする。
城内に入るとき、入場料とは別にカメラを持っていると幾らビデオなら幾らと追加料金を取られる。
払いたくなければ入り口でカメラを係員に預けなければらない。なんでも商売にする所で有る。

城の建設は16世紀から開始されその後何度も増築が重ねられたらしい。
鏡の間では真っ暗な部屋の中でガイドが懐中電灯を照らすと壁や天井に張った鏡が光って夜空を眺めているように美しい。


外に出るとインド人観光客の団体が近づいてきて一緒に写真を撮らせて欲しいという。
別に日本人が珍しい訳でもないだろうが、日本でもその昔外人と一緒に写真を撮りたがった時代があったことを思い出した。
一通り見学してから、妻がトイレに行っておくと言ってチップを用意して出かけたがすぐに戻ってきた。
『混んでいたの?』『いや、そうじゃなくてチップを払って中に入ったら3人づつ並んでするの。だからすぐ出てきてしまった』と。
公衆浴場じゃあるまいし他人の前でお尻出せるかって


アンベール城からジャイプールに向かう途中で水上に浮かんだような宮殿を発見した。
18世紀に別荘として建てたが、住んで見ると蛇や蚊が多くてとても住めないのでそのままになってしまったと言う。
宮殿の中に入って見学する事は出来ない。

ホテルで昼食してから市内観光に移り、旧市街ピンクシティにある王宮『風の宮殿』へ。
宮殿といっても奥行きが無く前面の壁しかないように見える。
道の反対側に回って正面から見ようとするが、信号のない道路を切れ目無くバイクや自動車が来るので道路横断も命がけである。
更に歩道には商品が溢れんばかりに並べられ通行する事もままならない。

風の宮殿は正面から見ると5階建ての見事なビルで、幾何学模様が美しい。
上まで上がれるらしいが団体ツアーの悲しさ、外から見ただけで我慢させられた。

その後シティパレスを見学。現在、宮殿の中は美術館や博物館になっているが、ここには現在もマハラジャの子孫が生活しているらしい
。旅の途中でも身を清められるようにと、ガンジス川の水を入れて運んだ身の丈ほどもある巨大な銀の壺は見ものである。

市内を一通り回ってホテルへ帰り、インド舞踊を見ながら夕食を摂る。

2000-10/28(土)ジャイプール~アーグラー

本日の移動時間も5時間半。途中で現地ガイドが『農村の家を見ますか』とバスを止めて近くの農家に案内してくれた。
バスから降りた途端、何処からとも無く沢山の子供たちが物欲しげに集まってきたが、学校はどうなっているのだろう。 聞くところによると、男子は15,6歳で結婚し10人程度の子供をもうけると言う。あどけない顔した男の子が赤子を抱いていたので尋ねると既に二人の子持ちとか。
欲しい労働力と死亡率の高さがそうしているのだろう。
この辺の農民は狭い納屋で羊も人間も一緒に生活している。
一握りの地主が土地の権利を握っていて小作人たちがそこを耕作して生活費を貰っているとのことであるが、教育を受けさせると農地改革につながるので教育改革も進まないらしい。
女性たちは老婆を含めて例外なく美しいサリーをまとっているが生活はきわめて質素に見える。

途中、世界遺産ファテープル・シクリを見学した。ムガール王朝時代の王都の跡ということだが水の便が悪かったため10数年しか使われず廃都となってしまったらしい。

アーグラーに着いてすぐホテルで小休憩の後アーグラー市内観光へ。
世界遺産アーグラー城は、16世紀にムガール朝第3代アクバル帝が築いた城砦で、街のほぼ中心にあり、ヤムナー川の向こうにタージマハルを望める。
城内の壁や天井は宝石を象嵌した大理石で埋め尽くされていて非常に美しい。

アーグラー城を後にして待望のタージマハルへ向かう。
ここはムガール朝第5代皇帝シャー・ジャハーンが、亡くなった妃のために建てた左右対称の総大理石造りの霊廟である。
門を入ると数百メートル続く水路が設けられた庭園の向こうに白亜の霊廟が見える。霊廟に入るには手前の広場で靴を脱いで裸足にならなければならない。
廟の左右には迎賓館とモスクがあるがこれも見逃せない。
タージマハルからの帰途、道路の照明が殆んど無いので、日が暮れると急に真っ暗闇の世界が広がってくる。
ホテルを探していた日本人の若者がいたがどうなったろうか。
薄暗がりの中で馬車を拾ってバスまで戻る途中、みやげ物売りが勝手に馬車に乗り込んできて象の木彫りを買って欲しいとしつこく頼む。結局、物売りはそのまま終点まで付いて来た。


2000-10/29(日)アーグラー~デリー

5時間半かけてデリーへ。デリー市内のレストランで中華料理を食べた後、ニューデリー及びオールドデリーの市内観光へ。
ニューデリーの街のお金持ちの居住区では、どの家も広大な敷地を高い塀で囲み、門には門番が立って周囲を監視していた。
一方オールドデリーでは、拾い集めた廃材で作った形ばかりの雨よけをつけた小屋が連なっている所もあれば道端で夜を明かす人もいる。
小屋といっても立って入れるほどの高さも無くもぐりこんで寝るだけの家である。
これが街なかの道路脇に数十軒もかたまって連なっているところが有る。
インドには富と貧困が同時に存在しているが居住区は厳然と分離されているようである。


独立の父ガンジーの慰霊碑ラージ・ガートは外から眺めるだけで入場は出来なかった。

次に訪れたインド門は第一次大戦で戦死した兵士を慰霊するために建設されたとの説明。
一帯は広い芝生の公園になっており沢山の人が訪れていた。インド門から2km程一直線に延びる道路の先には大統領官邸がある。
妻がインド門の前にいた蛇使いの方向にカメラを向けた為にお金を払えとしつこく言い寄ってきて振り払うのが大変だった。


世界遺産クトゥブミナールはインド最古のイスラム遺跡で、勝利記念塔はインドで最も高い石造建築物として有名である。遺跡の殆んどは崩れ落ち既に廃墟に近い。
すぐ近くには建て掛けのアラー・イーの塔の遺跡がある。クトゥブミナールより高い塔をと建てようと始めたが途中で断念したらしい。


その後市内観光で名も知れぬ遺跡を周ったが、帰ってきてから行程をチェックすると本来はフマユーン廟を観光する予定になっている。
なんか理由があったのだと思うが今となってはハッキリしない。残念。

インドの通貨であるルピーはインド国内でしか通用しないと言われたので(空港でも使えないと)、手持ちのルピーを市内観光で使いきった。
その為に最後の空港のトイレチップも無くなってしまい困ったが、何人かで纏めて払ったりチップを出さずにトイレを使わせて貰ったりして苦境を切り抜けた。
デリー発19:30のJL-7472便で帰国の途につく。

2000-10/30(月)帰途へ

朝8時過ぎに成田空港到着。お疲れ様でした。
今回の旅はカルチャーショックが大きくて精神的にも疲れました。



蛇足
  • バクシーアタック

    バクシー(お慈悲を)と言いながら物乞いをする行為をバクシーアタックと呼び、赤ん坊を抱いたり幼い子供の手を引いた女性や子供が多い。
    インド人ガイドの説明によると旦那が働きに出た後バクシーに出る主婦が多いらしく、本当に住むところも食べる物も無い人は稀だと言っていた。
    だから、赤子を抱いたり裸足になっているのは少しでも観光客の気をひこうとの演出らしい。

  • 交通手段

    路線バスには空調が無いので、よく風が通るようにとの配慮なのかどのバスにも運転席のドアが付いていない。
    乗客は屋根の上にまで乗っており補強の為か客席の窓には鉄格子がつけられている。
    腐って穴があいた車体部分には拾ってきたような鉄板が貼り付けてあって、日本では廃車置場で探しても見つからないようなつぎはぎだらけの車が溢れんばかりの客を乗せて走っているのをみて感心してしまった。
    タクシーは三輪自動車が圧倒的に多いが小回りが効いて便利なのかもしれない。
    庶民の足は50ccバイク。一人乗りバイクに家族5人も乗っている光景もみた。
    前に子供を2人立たせ、荷台には赤ちゃんを背負った奥さんが運転している旦那さんにしがみついている。
    3人乗り4人乗りはざらで、これが平均的な庶民の贅沢なのかな。

  • 動物との共存

    あまり冷蔵庫が普及していないのか、ごみ捨て場には野菜など傷みの早いものが沢山捨てられるので牛や山羊そして猪までもが集まって餌をあさっていた。
    牛はともかく猪は放し飼いなのか野生なのか定かではない。
    また、日本で街に猿が出て来ようものなら捕獲大作戦で大捕り物が始まる所だが、インドでは住居地区に牛や野生の猿がウロウロしていても誰も気に留めない。
    猿を見て騒いでいるのは日本人観光客だけだった。八百屋で牛が野菜を口にしても追い払う以上の対策は出来ないと言う。
    先にも書いたが、高速道路を我が物顔で歩いているロバや牛を見かけるのは全く珍しい光景ではない。

  • カースト制度

    江戸時代の士農工商の身分制度と似ているインド特有の世襲的身分制度で、バラモン(司祭)、クシャトリヤ(王侯・武士)、バイシャ(庶民)、シュードラ(隷属民)の4階層になっている。
    今回の旅のガイドの身分はクシャトリヤでカースト制度の中では2番目に偉いらしく、身分の違う人とは話す事も禁止されていると言っていた。
    シュードラは永久にシュードラで教育も受けられない。
    バラモンやクシャトリヤはシュードラなどが高等教育を受けて発言権を増すとカースト制度が揺らいでくるので、外圧で撤廃しない限り改善しないだろうと言っていた。

  • ターバン

    インドの衣装と言えばすぐに女性のサリーと男性のターバンを思い浮べるほど有名なターバンも、インド人全員が巻くのではなくシーク教徒だけが一生切らない髪の毛を纏めるために巻くもので、また出身地方によっても巻き方が違うと言う。
    彼らにはターバンを見ただけでその人の出身が判るらしいが、説明を聞いても私には判別する事が出来なかった。

  • インド商法

    ネット上にあるインド旅行記を読むと大抵の皆さんが騙された経験をお持ちのようだが、私も何度か詐欺まがいの商法に遭遇した。
    例えば、ランチョンマットを6枚買おうとすると1枚2枚と枚数をかぞえる振りをしながら、途中でサッと一枚抜いて隠してしまう。気が付いて指摘すると何食わぬ顔で数えなおす。
    円で購入しようとすると、今為替レートを確認したら○○だったと言って何%がごまかす。
    こちらは瞬時瞬時のレートは知らないから反論のしようも無いが、10%も違えば鈍い私でも気が付くよ。
    アーグラー城で、写真が出来上がったらホテルに届けて貰えるとガイドに勧められて記念に一枚撮ってもらったら、その後自分達で撮りあっていたところまでも勝手に撮影してホテルに届けられた。
    ガイドにこんな写真は頼んでいないと断ると『たいした金額じゃないんだから良いじゃないか』と言う。そうか、ガイドも一緒だったのか。

  • ボールペン

    あちこちで『ボールペンを持っていないか』と聞かれる。
    理由を聞くと日本のボールペンはインク切れが無くて使いやすいのだと言う。たまたま持っていた使いかけをあげると嬉しそうにしまいこんでしまった。
    次にインドへ行く事があったら、お土産にノック式ボールペンを沢山買って行こう。

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